上田葉介×橋本 倫
 絵画展−物質の勝利と非物質の栄光 
YOSUKE UEDA x OSAMU HASHIMOTO


2016年
1月8日(金)〜3月27日(日)

A.M.10:00-P.M.6:00(入館はP.M.5:30まで)
毎週:月・火休館

入館料/
一般600円、学生500円(小学生300円)



※特別イベント 鼎談 : 2月6日(土)15:00〜 ※要予約
美術史家の宮下規久朗氏を招き、上田、橋本両作家とともに 語っていただきます。


2016年1月3日(日) 新春特別イベント 「謡初め式」
 新春を寿ぎ、新年の無事と長久をお祝して、大蔵流狂言師 善竹十郎先生による「謡初め式」を開催いたします。


1月10日(日)14:00〜 オープニング・パーティ





※ブログをはじめました。美術館からのお知らせや日々の様子をお伝えします。

第一・第二展示室

上田葉介×橋本 倫          絵画展−物質の勝利と非物質の栄光

 油彩の画家として20年以上のキャリア持つ上田葉介、橋本倫の両氏。それぞれの作風は大きく異なるが、共に中世ヨーロッパで確立し画家から画家へと受け継がれてきた「油彩」による絵画史を意識しながら「油彩」の特性に忠実な描法を用いて絵画(油彩)でなければ表現できない世界を追求している。
 本展では、描き手の手を離れてもなお、絵画の持つ力によってその作品自体が絶えず表現し続けるような時間の堆積にも埋もれず、繰り返しその魅力を享受できる完成された芸術としての絵画のあり方を二人の作品を通して再考します。

物質の勝利と非物質の栄光―絵画の至福について―

橋本 倫

 ある種の絵画を目にした時、そこに漂う言語を絶する感覚―無聲詩の感覚―は何に由来するのか?例えば、マグリットの『詩的世界U』やフリードリヒの『アグリジェントのユノー神殿』、村上華岳の『荒原晩照図』や長谷川沼田居の『農家』、岸田劉生の『冬枯れの道路(原宿附近写生)』やデ・キリコの『祭壇の上の太陽』、呉鎮の『中山図』やダリの『太陽のテーブル』等、枚挙に遑無い。ごく一部を列挙したこれらの画は、いずれも典型的な具象画であり、同時にメディウム(画材)の物質的特性に忠実な描法を採る。グアッシュならグアッシュの、油彩なら油彩の、水墨なら水墨の、岩彩なら岩彩の、長大な歴史を負う各メディウムの固有性(物質的特性)に忠実であり、且つ、忠実であることによってメディウムの特性の差異を超えた普遍性に到達している。同様の指摘は、バーネット・ニューマンやクリストファー・ウール、カンディンスキーや白幽仙、モンドリアン、ロス・ブレックナー、大友洋司、黒須信雄、或いは越前谷嘉高や竹内義郎、若江漢字、そして上田葉介の場合についても言えることだ。全員に共通することは、超網膜的存在の実在確信を、第三者に対し確実に伝達可能な場として作品を描いたことである。彼らの作品は、画像形態の差異を問わず、“言外の趣”を確実に観者をして感得せしめる。

すなわち、描かれた画像が霊媒のように機能し、当該画像を超越した超網膜的存在の実在を確信させるのだ。超網膜的存在は、その本体を網膜レヴェルで認知可能な画像形態(形相)として直接描くことはできないが、その実在確信を描き出すことだけは可能だ。形相=画像の出現に先行する、“有を孕んだ相対的な無”とも換言できるこの存在を、イスラーム古典哲学では「素材(マーッダ)」と呼ぶ。井筒俊彦によれば、この「素材」について、イブン=ルシュド(アヴェロエス)は「(相対的な)無の状態に於ける有(アル=ウジュード・フィー・ハール・アル=アダム)=潜勢態に於ける存在(アル=ウジュード・アッラーディー・ビ・アル=クワッハ)」と規定し、このような「存在可能性の段階にある有=潜勢態に於ける有」を「現潜態に於ける有(アルル=ウジュード・ビ・アル=フィール)」に移行させる行為が創造であると指摘した。この創造は生成であり顕現であり、この生成=顕現を可能ならしめるものが「形相(スーラフ)」である。この形相を異常な精度で探索し、突き止め、描き出す人間を画家と呼ぶのだ。したがって、彼らの作品は、心象風景の描出や思想の図解や名所旧跡の観光絵図とは全く次元を異にする。彼らが追い求めるものの根源には、全くの無形・無相・流動的な、いわば非固定的エネルギーの状態にある存在がある。そしてこの存在の内部に分節が生じ、超網膜的な元型、すなわちイブン=アラビーの説く「有無中道実在(アーヤン・サービタ)」を産み出す。井筒に拠れば、これは何か固定した永遠不動のイデアのようなものではなく、無限に柔軟且つ流動性に富んだ鋳型として表象される存在であって、この鋳型を経由することで、超網膜的領域にある「素材」の上位次元にある絶対実在が、具体的な事物や事象、画像となって我々の経験界に出現して来るのだ。多様な網膜的図像を無限に獲得しつつも、ある種の絵画―それこそが正に絵画なのだが―が観者に共通した性質を有する“言外の趣=言語を絶する感覚”を感得させ、しかもその感覚が指し示す対象が描かれた当の画像=形相そのものに収斂していかないという極めて不可思議な経験こそ、イスラーム=スコラ哲学の精緻な論争の中で定式化されてきた構造を反映している。しかも、この不可思議な経験は、必ず、その経験を齎す絵画を支えている物質的基盤、すなわち個々のメディウム(媒体)の物質的固有性に忠実であることと不可分の状態で出現する。メディア融合的・横断的ではない。このような基本構造を持つものを絵画と呼び、この基本構造を内包した作品は、一種言いようの無い至福感=永遠感=不死の感覚を齎すのだ。私は、ある特定の作品だけがこの感覚を齎すという現象が、もの心つく頃から不思議でならなかった。どれほど網膜的に強烈で刺戟的な画像を見ても、上記の感覚を覚えぬ作品は色褪せて見えた。逆に素っ気無く、一見平易に映るものであっても、この不可解さを覚える作品―例えば呉鎮の『中山図』等―は、終日凝視しても飽かず、不可解さは募るばかりだった。そして、そこには必ず至福感が伴っていた。私はこれを、端的に「美」であると言い切ってしまいたい。「美」は永遠と不死へと到る、現象界に突出して来たStar Gateなのだ。外見的な整斉に終始するお座敷美人画的な「綺麗さ」ではない。「美」は、人間が獣性の暗黒へと転落することを阻止し、有限存在たる必滅の宿命から逃れ得ぬ我々がそれ故に持つ尊厳を嘉し、自覚させる。斯かる自覚は、メディア・アートの遊園地で幾ら動画を目睹しようが得られるものではない。絵画は、優れて瞑想的な芸術なのだ。
                                        
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