河口龍夫  闇の時間
 
Tatsuo Kawaguchi : Darkness Time


2015年
10月2日(金)〜12月20日(日)

A.M.10:00-P.M.6:00(入館はP.M.5:30まで)
毎週:月・火休館
12月21日(月)〜1月7日(木)は冬期休館になります

入館料/
一般600円、学生500円(小学生300円)


10月4日(日)15:00〜 オープニング・パーティ


特別イベント 11月1日(日)15:00〜 
河口龍夫 アーティスト・トーク:闇をめぐる作品について
同日開催 〈DARK BOX 2015〉 封印パフォーマンス

当日来館された方の中から20名様に〈DARK BOX〉の封印を実際に体験していただきます
※要予約


※ブログをはじめました。美術館からのお知らせや日々の様子をお伝えします。

第一・第二展示室

河口龍夫 闇の時間

 国内外で高い評価を受ける現代作家の一人、河口龍夫氏の1999年以来二回目となる当館での個展。本展では代表作の一つである、〈Dark box〉を中心に1968年の個展に始まる「闇」をめぐる作品の数々を展観いたします。



純粋な闇を求めて 

河口龍夫


   カスヤの森美術館開設20周年を記念して「IMBOS」5号が刊行されるにあたり、原稿の依頼があった。そこで『作品に残す言葉−「闇」の作品をめぐって』を執筆し、文字通り私の闇の作品について書いた。その文章が切っ掛けとなって、今回の闇をめぐる作品による個展がカスヤの森美術館で開催されることになった。二回目の同美術館での河口龍夫展となる。個展開催に合わせて何か書くように言われたが、既に先の拙文で闇に関する作品について書いたので、このうえ屋上屋を架す愚は避けたいと思い、ここでは拙文でふれていない闇の作品について覚書として書くことにする。

  闇に私が関心を持ったのは、芸術が見えるものだけではなく、見えないものと見えるものとの関係によって成立しているのではなかろうかとこれまで考えてきたからある。単純にいってしまえば、「闇の世界と光の世界」ではなく「闇と光の世界」、つまり「見えないものと見えるもの」ととらえてみてはどうかということである。我々は光りのなかで自由に物事を見ている。そのことを別のいい方をすれば、光のなかで見ることができるものしか見ていないとも言える。日常において見えないことが実際に起こるのは、眼を閉じたときである。あるいは、眼を見開いていても置かれた環境によって見えない場合である。例えば、突然に停電した時とか、洞窟やトンネルなど闇のなかに居合わせて光りを失った時である。光のない闇で実際に見えないことと、芸術表現において見えない世界を表現することとは異質のことであるかもしれないが、重ね書きのように重ね合わせて関係させてみてはどうかと考えたのである。つまり、そのような発想を持つことによって、見えない芸術に近づくための糸口がつかめるかもしれないと思ってみたのである。

   光を遮断し人工的に闇をつくりその闇のなかに入り込んだり、闇のなかで闇を封印したり、闇のなかでドローイングをしたりしてきたが、それだけではとどまらない、この宇宙が闇であったように、既に闇として存在している闇にも私は関心を抱いている。たとえば、身体のなかの光が及ばない闇についてとか、自然のなかの光の届かない洞窟の闇や深海の闇についてとかである。ここでは植物のなかの闇、特に竹のなかの闇について注目したいと思う。
  
  竹のなかの闇に関心を持った直接の動機は、2011年3月11日に起こった東日本大震災による大災害である。唐突に思われるかもしれないが、振り返って考えるとそれが発端である。震災そのものは自然災害であるが、東京電力福島原子力発電所の事故による放射能の漏えいは明らかにに人災であるといってもよい。その人災事故で地球の空気を汚染させたのである。

   私の仕事場のある長生村から、九十九里浜の一つ松海岸までは毎朝の散歩コースである。3.11以後余震が弱まり、津波が去った後の九十九里浜に出かけたが、見慣れた砂浜の風景は見るも無残に激変していた。砂浜のいたるところ漂流物が散乱し、砂浜がさまざまな物質の残骸でうめつくされ、まるで巨大な選別なきゴミ捨て場のようであった。根の着いた巨木、家屋の断片、船の破片、貝殻、さまざまな人工物、基がなにであったか判断できない物体、等など人が必要としたあらゆる物質が粉砕され関係のすべてを喪失し、漂流物となって砂浜に打ちあげられていた。それは名状しがたい光景であった。そのなかを途方にくれながら歩き続けた。芸術家としてこの現実に何ができるか自問自答しながら。しかし、この自問自答には、自分に問い自分で回答するという本来の語意の他に、私には自然に問い自然からの回答を希うような思いがあった。
  
  日頃その浜を散策する時には、美しい貝殻や形の面白い貝殻を拾いあつめていたが、その日以後そのような気持ちで貝殻を見ることができなくなっていた。貝殻はあたかも死の象徴であるかのように、屍骸にしか見えなくなっていたのである。その貝殻を拾い集め、死の隠喩としての貝殻に、誕生の隠喩として蓮の種子を貝殻の中央にくっつけ蜜蝋でおおい続けた。それはあたかも種子が貝殻のなかで生まれた真珠のように見えるので<真珠になった種子>と名付け、鎮魂の思いを込め亡くなった方の人数に迫るかのように制作に挑んでいった。その他に、何気なく拾い上げたものに眼鏡があった。その眼鏡をかけていた人のことを思った。その刹那、その眼鏡を砂浜に戻すことができなくなっている芸術家としての自分がいた。その眼鏡を芸術にする以外私にその眼鏡に対して供養するすべはなかった。そして、眼鏡のガラスを鉛でおおい、この世を鮮明に見えることを保証するはずの眼鏡を、見ることを休憩するための眼鏡として<見ないための眼鏡>を制作した。
  
   ところで、ほとんどの漂流物が福島からのものだとすれば、漂流物達は、あたかも原発事故による放射能の漏えいから、それ以上被曝しないために脱出して流れついたかのように思えた。そして、その砂浜には根こそぎ持ち去られた竹が散乱していた。竹の漂流も福島からに違いないと思った。福島からの漂流物のほとんどが、原発事故による放射能の漏えいによる汚染の影響を受けていたと考えるなら、流れ着いた竹のなかの空間に潜む空気と闇だけは汚染していないに違いないと思った。私にはその竹のなかの空間の闇が純粋な闇に思えてきたのであった。というかどこかで救いを求めていた私にはそう信じたいと思ったに違いない。漂流し浜に流れ着いた竹を仕事場に持ち帰り、竹の節と節の間を切り取り、鉛で竹の周囲を完全に覆い尽くし、竹のなかの闇を半永久的に封印したのである。これまで種子を核の脅威から守るための象徴的な表現として鉛で封印して作品にしてきたが、3.11によってもはや心理的にも守りきれないことを実感させられ、打ちのめされることになったのである。精神的な意味でのメタファーとしての芸術の問題であったとしても、原発事故を起こしてしまった人間そのものに一種の絶望感が私を襲った。だが私もそんな電気を使い続けたひとりであったことを忘れてはいけないのだ。この現実に芸術はどう立ち向かえば良いのか。そして芸術家としてはどうすればよいのか。真正面から突き付けられた難問であった。
  
   難問はそれだけに収まらない、先述したように、芸術を見えないものと見えるものとの関係が大切なのではないかという考えを示唆したが、その見えないものを見たいという願望は、見えないものは精神的に崇高なものしてとらえていたのである。ところが、見えないものに恐怖しなければならない事態が発生したのである。原子力発電所の事故による放射能の漏えいである。何故なら、放射能も我々には見えないものであるからである。見えないものに抱いていた精神性が地に落ち、見えないということが恐れとなってしまったのである。このことの負の衝撃は大きい。見えないことの両者の意味が違うのではないかという声も聞こえてくるが、そのような見方もありその指摘はもっともである。だが見えないものへの憧れのようなものにひびが入ったように思えたのである。

   しかし、竹のなかの空間の闇は、汚染されることなく純粋な空気と闇を生まれながらに保存しているに違いないということに気がついたとき、私が闇のなかで闇を封印することによって生まれる闇ではなく、竹が誕生し成長とともにその節と節の間に純粋な空間の闇が生まれることに未知な刺激を感じたのである。
  
  カスヤの森美術館の裏山には、幸いなことに竹藪があった。美術館の協力を得て竹取物語よろしく竹を切り取り、竹を鉛で封印し、竹のなかの闇を意識化し、作品となったのである。竹取物語では光り輝く竹を切り取ったのであったが、光とはま逆の闇を切り取ったのである。闇のなかにもかぐや姫が存在するかどうかは不明であるが、竹のなかの闇のかぐや姫は、決して輝かない、ブラックホールのような存在なのではなかろうか。純粋な闇取物語の始まりである。

2015年7月16日

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