22水辺に佇み、風に触れる22
 海老塚耕一 
KOICHI EBIZUKA
2013年11月1日(金)〜12月22日(日)
A.M.10:00-P.M.6:00(入館はP.M.5:30まで)
毎週:月・火休館
入館料/通常料金 500円


本展の作品はJSPS科研費(25580048)の研究助成を受けたものです






※ブログをはじめました。美術館からのお知らせや日々の様子をお伝えします。


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第一・第二展示室

水辺に佇み、風に触れる
海老塚耕一

 海老塚耕一氏は「平櫛田中賞」をはじめ数々の受賞経験を持ち、「第6回インド・トリエンナーレ」、「第19回サンパウロ・ビエンナーレ」等の国際展に選出されるなど国内外で評価されているアーティストのひとりです。近年では、一般成人や児童を対象とした公開講座を通して美術を学び、考えることで得られる社会生活における有用性を体感してもらう活動も積極的に行っています。
 本展では新作の彫刻作品とインスタレーションを展観します。

 「断想 」 海老塚耕一

 水のかたちを表現しようと試みた人々の眼差しに想いを馳せる。外的な現実のなかにかたちを生みだし、その対象の内側に精神の広がりを構築した人々のそれぞれの作品の行方、彼方を認めたい。(あるとき水を表現した作品には、つねに風が流れていることに気づく。)たとえば、水が自らのあり方を告白したとしたら、どのようなことをどのように語るのだろうと考えた人々の作品と出会いたい。僕は「水」と「風」を信仰している。フィクションだと知っているが、その多くの人々が作り上げたフィクションを信仰している。

 ところで、時間に余裕ができたとき、小さな川の縁に佇む。水面には木々の緑と遠くの空が映る。それは何処にでもある光景だ。しかし、僕の制作場所、山北作業所の水辺の風景と、水面に映る光景のなかに、制作の動機があることは確かだ。川は始まりもなく終わりもないような、そんな錯覚のなかで息づいている。いつでも変化をし、留まることはないのだが、いつも同じ相貌なのだ。そう、いつでも途中。かたちを生んでいるのだが、固定はしない。川をかたちづくる多くのものの中心に水がある。その水をただ眺めるだけなのだが、気づかぬうちに川は僕の内なる世界で決壊している。何がと問われて、これとは言えないのだが、自分を制作に向かわせるなにかが洪水のように押し寄せて、多種多様な慣習の囲いを崩す。水に押し流され、押し流された自分を探しながら、探し出した精神の欠片からかたちが生まれていく。水の欠片はおもしろいことに最小限の単位にはならず、そこから何にでもなることができる自由を持っている。

 そんな想いのなかで、フィクションだと気付きながら、あるいはフィクションであるからこそ安心して楽しみながら、「水」と「風」の織りなすフィクションを新たに編んでいる。タブッキは風について次のように記述する。「人の生涯は風でできている」と。それは流れを指しているのだろう。流れを意識したとき、あるいは把握するためには、流れのなかにいなければならないことは確かだ。現象としてそこに現れた関係を認識するだけではなく、流れの総体のなかで自らの位置決定の理解が必要だと、そう語っているのだろう。そこに自己規定の統一が生まれたとき、「時間」が現れる。だからこそ、五つの感覚と一つの感覚、それに加えて空間的な感覚と時間的な感覚のなかで作品は生まれていく。そして再び僕は水について考える。水や風を物質化するために、それらが創り出す心地よい振動を携えて。

 僕は今、晴眼者のみに向かう美術・作品から距離を取る。晴眼者の目のあり方からの解釈のみが世界を創る、そんな美術から離れていたい。ボードレールのように時間のなかで事物同士が照応する。とすればそれは見えなくとも触れることにおいてもその関係のなかで、その時間のなかで作品のひろがりは掴めると云うことではないか。晴眼者の作品との関係が、すべてでもなければ、正解でないという想いから、作品との時間を生きる。そこでは照応し合うことにより、それぞれの精神のなかにひろがりが生じ、内なるものを外に導き出すための個の文化が生成する。ある人に言われた。「盲人には美術はありませんと」。けれども、ボードレールのコレスポンダンスに委ねれば、美術作品という素材に触れ、そこで想像力が美術作品を解体し、表出した新たな世界像が言葉になったとき、美術はどのような人のなかでも意味を持てるのではないかと思う。
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